沿革 活動内容 過去の活動内容 会員名簿 山科・醍醐の紹介
 京都の東の玄関口として、北、東、西と三方に緑豊かな山に囲まれた山科・醍醐地域の歴史は古く縄文時代までさかのぼります。 昭和44年洛東高校生により発見された中 臣遺跡は、当時の山科での暮らしの様子が窺われます。 645年、中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足らによる大化の改新により、山科に陶原 の館が建てられ山階寺が創建されました。 671年天智天皇は、御陵に葬られ今もその 森は静かに護られています。
 平安時代にはいると、聖宝理源大師により醍醐寺が立てられ、また 「玉の輿」 の語 源となる藤原高藤の雨宿りの地に勧修寺が創建されました。 852年小野小町と深草少 将との 「百夜通い」 の恋物語の舞台として隨心院があり、栗栖野郷には、征夷大将軍 に任じられた坂上田村麻呂が葬られ、死んでなお、京を守るため東に向かって甲冑を着 たまま立っていると言われています。 今も田村の森として公園となっていますが近年、 西野山古墓あたりが田村麻呂の墓であるとの説が発表されています。 応仁の乱により人 心が乱れる室町時代には、親鸞のおこした浄土真宗を継いだ八世蓮如により、1483年 西野郷に南北1.5キロ、東西1キロの山科本願寺が建てられました。 しかし蓮如が亡くなり、 1532年には焼かれ、今は土塁跡にその面影を残すのみです。 秀吉の時代に移ると醍 醐寺で盛大な花見が催され、今も醍醐の花見として太閤行列が行なわれ大勢の花見客 で賑わっています。1701年江戸城松の廊下事件に始まる忠臣蔵の舞台となるのが大石 内蔵助山科閑居であり、西野山郷に住いを構えた内蔵助は討入りまでの善後策をここで 練ったといわれております。 山科には内蔵助所縁の社寺が多く、討入りの12月14日に は区民のまつりとして、「義士まつり」 が執り行われ義士隊の行列が大石神社をめざし て練り歩く盛大な冬のイベントとなっております。 近代に入ると、田辺朔郎の手により琵 琶湖の水が山科を通り京の町に注ぐ大工事が進められ近代化に大きく前進することにな りました。  このように山科・醍醐地域にはまだまだ多くの史跡に恵まれ、産物においても、山科 ナス、筍、砥之粉などが全国にも知られ、近年には清水焼に携わる方々が山科に移り住 まれ清水焼団地協同組合として伝統産業の継承だけでなく新ブランドの取り組みなど幅 広く山科の地域性を生かした事業を展開されています。  当会も社寺仏閣や各種伝統産業並びに行政と深い連携を図り「おこしやす、やましな 協議会」 を設立するなど、ますます山科の歴史を広くアピールしてまいりたいと存じます。